物見遊山の栞

物見遊山を物見遊山する。(全二十四册)

01【季節を纏う】物見遊山とは折々に季節を纏うこと。

02【胸の内の季節】季節を纏うとは外の季節に晒されるばかりでなく、胸の内に季節を畳み入れること。

03【密と蜜】密なる国土が密なる多様な気候をもたらし、うつろいゆく蜜なる四季を風土と人にもたらしているということ。

04【季節数寄】多様な貌をもつ季節を好いて梳いて胸にしまう。それが季語となり暮らしのなかを揺蕩う。

05【花はしるし】花は季節のしるし。野に顕れ、庭に顕れ、床の間に顕れる。

06【カミの顕れ】カミは季節とともに、山の向こうからやってくる。ときにはマレビトとなって。

07【祭と宴と舞】カミを担ぎ、カミと酒肴をいただき、カミと舞う。神輿も酉の市の熊手も担がなければ様にならない。

08【枝垂れ桜と笠】北野天満宮の花の下連歌と笠着連歌では、枝垂れ桜の元のもの、笠を被るものは身分を問われず歌を詠むことができた。制約を超える不可侵の無縁の場。

09【大傘】北野大茶湯(1587年)で丿貫(へちかん)は大傘を立てその下で茶を点てる。茶室もまた無縁。

10【野点と花見】野点(のだて)や花見でも大傘が立てられるようになる。無縁の宴。

11【磨かれる季語】『万葉集』『古今和歌集』『源氏物語』『小倉百人一首』、連歌、花札と季語が梳かれ磨かれていく。やがて季寄せ、歳時記にまとめられ万人の拠り処となる。

12【ひろがる物見遊山】物見遊山はやがて、祭、見世物、お参り、縁日、年中行事、興行、旅へとひろがっていき、季節とともにめぐるときのなかの暮らし方となる。

13【巡礼のはじまり】巡礼は古代中国の冊封体制から。朝貢に対して冊封を授ける。巡礼のはじまりは王権とともにあった。やがてそれが伊勢参りに結ばれていき、お札や土産をいただくようになる。

14【伊勢音頭】伊勢参りの土産で重宝されたのが伊勢音頭。なにしろモノでないので軽い。覚えて披露すればよい。こうして伊勢音頭がさまざまな歌となって全国にひろがった。鎌倉では「天王唄」と呼んでいる。

15【巡礼のひろがり】巡礼は伊勢参りばかりでなく、四国八十八箇所霊場巡り(お遍路)、三十三観音霊場巡り、千日回峰行、七福神巡り、御百度参り、双六など、聖俗あわせ各風土に張り巡らされている。

16【夢のお告げ】夢にはしばしば神仏やご先祖さまがあらわれてお告げを賜った。夢は現実と地続きであり、凶夢の場合は夢祭りを執り行い災いを祓った。また吉夢をもとめ寺院に籠ったり、夢を売買したりした。

17【伝説と縁起】伝説や縁起も夢と同じように語り語られるうちに現実化していった。病を引き起こす祟りも語られながらひろまっていく。四季(季語)と同じように感覚を共有している。

18【芝居と物見遊山】近松門左衛門の『曽根崎心中』は、実際に大阪の曾根崎天神の森でおきた心中事件を舞台化したもの。舞台の夢(彼岸)のような事件もそのまま此岸の観客にまで結ばれていた。芝居見物も物見遊山のひとつ。

19【四方四季の庭】浦島太郎が竜宮城へ行くとそこには四方四季の庭があった。東の戸をあけると春の景色が、南をあけると夏の景色が、西をあけると秋の景色が、北をあけると冬の景色がひろがり、四季の同居する理想郷であった。

20【暮らしをつつむ四季】四季は、庭、縁側、襖・障子、床間、調度、着物など家のなかへ入りこんでいった。それは季語などの四季の共有感覚があったから。手紙は時候の挨拶ではじめる。四季が暮らしをつつんでいた。

21【音と訓】大陸から文字がやってきたとき、文字をもたなかったやまとは大陸の音とやまとことばの訓を和した。そして大陸とやまととふたつの文化をも和していった。およそ百年をかけて綴られた『万葉集』にその苦心の様が見える。

22【過ぎ去りしもの】過ぎ去りしものには格別の感情を抱く。藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」は嘆いているのではない。桜も紅葉もそこに見ることが叶わなくともそこに湧きあがる格別の感情を味わう。胸の内の四季がふとそよぐ。

23【花もなき物見遊山】あるものばかりを見るのが物見遊山ではない。そこになきものをそっと抱くのも物見遊山。鬼籍に赴かれた友と物見遊山をしたり。

24【物見遊山の道】うつろい、過ぎ去りしものの残す余韻が郷愁にほかならない。物見遊山は郷愁への道。

日本人の四季感覚

おそらく日本人の四季感覚が磨かれたのは604年(推古12年)に大陸より伝来した暦をもとに暦を制作してから。そこに記された四季(春夏秋冬)とやまとの四季感覚がどうにもあわない。花見を梅から桜へおきかえてもまだしっくりこない。季節が歳時記に整理されるも、いまだにそのずれは埋まっていない。どうにも肌にあわない。もうそろそろ、この大陸からの呪縛を解いてはどうか。桜が開くたびにそう思ってしまう。

視線と文化

◎世界という世は兎角窮屈だ。互いに見下しあっているとさらに肩身が狭くなる。どうして、都市では視線を逸らしあっていそいそと歩くのか。これでは巡礼もはじまらない。

◎北山修は、浮世絵には蛍やら鳥やら消えゆくものを母子が眺める「共視」(共同注視)の構図が夥しいことを指摘する。また、浮世絵の芝居絵で場面を描くのではなく、浮絵(透視図法)の手法で芝居小屋の中まで描いて見せるのも、描かれている観客とともに浮世絵を視るものまでをも「共視」に引きこんでいるのではないか、というのは田中優子の指摘(鳥居清忠『仮名手本忠臣蔵』など)。

◎おそらく共視には語りが伴っている。子を背負っている母の「ほらてふてふ」という声が聞こえてきそう。浮世絵の芝居小屋のなかからは、遠くの舞台の役者の台詞から観客のお喋りまでが聞こえてきそうだ。寺社の縁起や由緒、妖怪の伝説などもそこで語りに語られて共視を起こしているのだろう。歌枕の絶景には歌や土産話という語りが伴っている。

◎江戸という町は金魚の売り声から落語、瓦版屋から見世物小屋の呼び声、井戸端会議まで語りで溢れかえっていた。花火から百鬼夜行まで江戸の町のいたるところで共視が起きていた。みな目を伏せるよりも目を剥き出して歩いていたろう。おそらくそれが江戸の視覚文化を生んだのではないか。

※参考
『共視論 母子像の心理学』(北山修=編、講談社メチエ、2005)
『仮名手本忠臣蔵七段目謀酔の段』(神戸市立博物館蔵)

栞の空

◎時折、空を見上げて記憶の庭に栞を挟む。空は色も雲の象もひとつも同じものはないので、記憶に根を張るにはうってつけ。月を見るのも同じ。暦の季、季語も「あのときの空」「あのときの月」と結びついている。上弦の月も三日月もSNSに流れるが、それはみな異なる時間・場所で撮られたもの。もちろん写真機も別、構図も写りも別。それでもそれぞれが栞となり、それが胸の内の空、胸の内の月となっていく。人は記憶の庭に触れようとして空を見上げるのではないか。

お十夜・練行列(鎌倉・光明寺、2024年10月)