【胸の内の四季から郷愁まで】「にほんは胸の内にあり」を感得する。きっかけはハルオ・シラネの『四季の想像』。日本人にとって「四季」は外なる気候ではなく、心のなかに投影されたものという指摘が見事だった。ハルオ・シラネは赤子のときにアメリカに渡って、日本文化の研究をしている。源氏物語の「独特」の訳で知られるサイデンステッカーのもとで研究していたこともある。そして日本人の独特の「四季感覚」について指摘した。日本人にとって四季は頭で考えるものではなく、体で味わうものなのである。
ハルオ・シラネは「四季」について述べたが、実はこの「感覚」は日本文化の基底にある。たとえば「草木国土悉皆成仏」。これは草も木も成仏するという草木仏教のエッセンスであるが、大陸からやってきた仏教では草も木もそれは無情であるから成仏などとは無縁であるとする。だが日本人の「感覚」では草も木も生きているではないかとなる。日本人はもともと細長く、およそ住まう地が限られていて、草・木・森の密集する国土で植物と肩を寄せ合うようにして生きてきた。その普段の身体感覚が「草木国土悉皆成仏」に結ばれている。この草木仏教こそが日本で芽生えた日本らしさ、日本の形となる。その身体感覚が「四季」を体に沁み渡らせ、季語や歳時記を生み、和歌や俳諧、『源氏物語』という文芸を生んでいった。
外の感覚が「岩に跳ねるや蝉の音」なら日本人(内)にとっては「岩にしみいる蝉の音」の感覚となる。これを「胸の内に畳みこむ」と綴りたい。
日本人はとにかく春と秋が好き(数寄)だ。それは歌を見てもわかる。『万葉集』では春の歌が172首、夏が105首、秋が441首、冬が67首ある。断然秋が好きで、その後が春。それからやや離れて夏と冬とつづく。これは胸の内の四季のすがたと云って良い。外なる四季を胸の内に畳みこむとき、ことばに重ね、梳いて梳いて梳いていく。そのことばが季語となり、それらをあわせた歳時記となる。そしてさらに暮らしのなかでは和の暦となっていく。歳時記は和歌、短歌、俳諧、俳句の指標であるばかりではなく、暮らしの指標そのものなのだ。そして四季が暮らしのなかに入りこむと、それが着物や工芸や調度の柄にあらわれたり、食べ物の旬にあらわれたり、祭りなどの年中行事にあらわれたり、農作業にあらわれたり、模様替えにあらわれたりする。
この日本人の身体感覚(胸の内の感覚)はなにも「四季」にあらわれているだけではない。「草木国土悉皆成仏」にも、日本の「自然」とともにあろうとする禅にも、「ご機嫌麗しゅう」の挨拶の人や他所への気遣いや、近所の回覧板や、幕の内弁当や、巫女舞などの神事や、農作業や、江戸の市中や、花火や、農村歌舞伎や、門付芸や、落語や、門松や、床の間などなど暮らしのあらゆる場面や機会にあらわれている。
そんな日本人の胸の内がうつろいを漂わせ、面影を浮かびあがらせ、それらがゆるやかな渦をなして郷愁となる。日本は胸内山水の国。
※参考
『四季の創造 日本文化と自然観の系譜』(ハルオ・シラネ、北村 結花=訳、角川選書、2020)