田子ノ浦の富士

明治後期から大正初期

田子ノ浦は伊豆方面からの新鮮な魚類を運ぶ伊豆船や、遠州相良から石灰岩を運んできた遠州船が吉原湊に出入りしていました。当時、入山瀬にあった富士製紙で石灰を多く使用しました。多正面奥には石水門が見えますが、これは沼川の逆潮を防ぐため、明治18年に築かれたもので、「六ッ眼鏡」という愛称で親しまれました。

台風のときは大波がドンドンと水門にぶつかって、すごい水しぶきが上がったけど、びくともしなかった」と富士市の広報に当時の近くに住んでいた方の話が有ります。しかし、昭和42年、田子浦港築港の折、惜しまれつつ取り壊されました。この絵葉書は手彩で、色使いが大変きれいです。


明治30年代

部赤人「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」で、有名な「田子の浦」です。和船の後ろに見事な富士です。


右下の英字が「TANCO NO URA」とあります。基の写真は明治期の物から起こした物でしょう。これは明治33年以降に私製の絵葉書が認められてからすぐに発行された物です。この写真が撮られてから、発行されるまでにかなりのタイムラグが有ります。明治40年以降になりますと、このタイムラグも短くなってきました。

撮影機器の普及、印刷技術の向上や販売活動の普及などの影響です。少しアングルが違いますが明治時代に横浜を拠点に活躍したイタリア人の写真家、アドルフォ・ファルサーリの作品に似通った物があります。この景色も残念ながら大きく変化し、絵葉書の中の世界だけになってしまいました。

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